目次

人類史の曙

古典古代

中世

ルネサンスから近代へ

現代

 

 

 

歴史のあけぼの

  私の古典古代といえる中学時代以前に、先史時代がある。それは私の個人史のあけぼのだった。その頃私は数々の書き物をしたが、今では何の記録も残っていない。すべてが火山灰の下に埋もれてしまったのだろうか。

記録はなくなってはいるものの私の記憶は鮮明である。姉妹達とたき火をしながら食べた焼き芋の香りがまだきれいな空気の中に漂っている。一年に一回の海岸遠足は、海鳴りとともに蒼い海の白いしぶきとなってよみがえる。

遊んでも遊んでも、遊び足りなかったエネルギーと秋の運動会の白いシャツ、白いパンツ。かけっこ競争のヨーイ、ドン、一目散に走ったものだった。頬がぴくぴくするほど早く。

野山や川岸で、写生に没頭して時間が経つのを忘れたこともある。川の流れが遠くの山間に消えて行く。川の深い青さと、空の明るい青さが地平線のかなたで交わる点が神秘だった。

さて、神秘に包まれた先史時代の発掘よりも、今私は持っている記録をひも解いて、古典古代から追跡しようと思う。

古典古代のあたりからの日記帳や記録は今でもびっしりと本棚に詰まっている。その一冊一冊を見ていくことはしないで、古典古代、中世、ルネッサンス、近世、近代にかけてイベントとなるようなところをランダムに日記帳から拾い上げてみたい。

私にとっては、高校時代が中世にあたるが、この辺の時代は解釈不可能な所が多く、大部分は伏せたままになると思う。

個人史が人類の歴史を追体験してきたと言うのが私の信念である。この発想を持ったのが、大学2年生のころ、20歳前後だった。この発想を持ったのはまだルネッサンスの頃なのではないかと今では思う。それ以降も意識的に歴史の発展に身を任せていた。

 

ここでは個人史の各段階の様相をなるべく記録に忠実に辿っていきたい。人類の古典古代の精神が、私の古典古代にも力強く脈打っていたということを、今記録を読み直していて、ますます強く感じている。それは古典古代ばかりではなく、各段階の発展段階にも当てはまることである。

ルネッサンスから近代、現代にかけての歴史の移り変わりも、まだまだ解釈不明な所が多いが、人類史を追体験したという実存的認識がいつも根底にある。

類的人間として、今までの人類史を人類前史とし、人類の後史における人間像となるかもしれないなどと空想を巡らしている。個々人は自由になり、平等になるだろう。世界は個々人を尊重して、教育的発展段階を考慮して再編され、経済、政治は教育に従属し、文化的教育が尊重されるだろう。世界が狭くなり、個々人が尊重され、個々人は自分の管理する機密のデータベースをもち、必要とあればいろいろなリソースにリンクできるだろう。

人類の課題は大きい。誰かが始めなければならない。課題を遂行する能力と、未来への展望を持つ人々、又は持ちたい人々に私は語りかけたいと思う。

 

 

中学時代-古典古代

 

-生活-

8才か9才の頃から日記を付け始めた。残念なことにそれらはなくしてしまった。これからのものは大切にとっておこうと思う。大人になってから読返すのは、とても意味のある事に違いないし、自分の生きたしるしを残しておくことはおもしろいことだから。人間にしかできないことだと思う。

わたしはいま本の虫みたいだ。毎日図書館にいく。家の本は少ないから、学校の図書館から借りる。面白い本が図書館にいっぱいある時は、毎日5冊から10冊も借りる。

図書館の熊田先生は特別に私を待遇してくれて、図書貸出日でなくても、本を貸してくれる。学校の図書館に面白い本がもっともっと入ればいいなと思う。

 

もし私が生きた友を失ったら、、、

それでも私は絶望しない

私の本当の友

悲しみを分け合い

喜びを分け合う友

それは書物なのである

 

私の生活は主に学校、家の手伝い、読書、娯楽という日課で繰返されている。家ではもっと予習・復習をしなければならないとは思うけれど、手伝いに長い時間を費やすので、予習復習はちょっと無理になることもある。父母は私がもっと手伝いをすることを期待しているみたいだ。

人間として娯楽も必要である。毎日2時間ぐらいラジオを聞く。長い目で見るとこれは相当な時間の浪費である。しかし、面白い番組を聞かないでしまえば、私の生活に大きな穴が空いたみたいな気持になるだろう。

妥協策として考え出したことは、ラジオを聞いている時なにか仕事をすること。宿題をしてもいいし、姉の料理の手伝いでニンジンをきざんでもいい。ジャガイモの皮をむくことも簡単にできる。

 

-友達-

同じクラスに山田さんと言う小さな男の子がいる。この子が私を捕まえてある日言った。

「おまえは女で番長だ」

「番長って何?」と私が聞くと、

「一番威張っているやつだよ」と山田さんは答えた。

こんな痩せ男を相手にしていたら日が暮れてしまうと思ったので、その場を立ち去ろうとした。私といつも一緒にいる崎山さんと言う女の子がいる。この時もちょうど一緒。

「それなら男の番長は誰?」崎山さんがすかさず聞いた。

山田さんはにやにやしていた。山田さんと一緒にいた原田さんが変わりに答えた。

「この山田だよ」

「そんなら、番長と番長で喧嘩してみれば、どちらが強いか」崎山さんがおもしろ半分に言った。私はそろそろ我慢ができなくなっていたので、「暴力じゃなく学力でね」と念を押した。

「勉強ができると思っていい気にすんな」と原田さんが言った。

男と言うものは、物分かりの悪い動物だと思った。

 

-思索-

私と言う人間、何故この世に姿をあらわしたのか。この現実は夢に過ぎないのか?私は分からない。何故他人のことより自分のことを詳しく知っているのだろう?何故、人々は他人のことより自分のことを考えて暮らしているんだろう。自分と言うただの人間を、自分と同じただの人間によく見せたく思う、それはどんな心に気まぐれなのか?

分からない。私は分からない。この世がなんであるのか。考えるということが、果たして人間にどんな欲望をもたらすのか。自分を意識した時、私はもう中学生になっていた。今までの自分を振り返ってみた。思い出は何もない、さびしい今までのような気もする。

日本と言うちっぽけな、しかも尊い国の中にぽつんと生まれてきたのだ。10年あまりの間何を考えて生きてきたのだろう。何故今まで、私と言う人間を見ないできたのだろう。

わたしはいまの自分をとても幸福に感じ、この世の中に私を立たせてくれた両親に感謝している。両親は私に対して親切だから、将来は私が親に親切にしてあげる。どんなに楽しいだろう。早く来ないかな、私の楽しい未来。でも、それが実現するまでにはいろいろな困難もあるだろう。その苦労も楽しみだ。世の中に存在する障害物、それをきれいに乗越えたい。そして、私のうれしい未来に一刻も早くまじめに到着したい。

 

-反省、教訓-

あまり考えないで行動してしまうことがある。この前理科の課外授業があった。帰り図書館で本を読んでいたら、大宮先生が来て「もう三時になる」と言ったので、お腹も空いたことだしと思い家に帰ることにした。ところが途中道、小学校からの友達にあった。彼女の自転車に乗せてもらって、そのまま母校の鉾二小へ行ってしまった。

塙先生と話をした後、同窓会のことでもう一人の友達(カッシャクマに住んでいた)を訪問することにした。

用事を済ませて家に帰る頃、あたりは真っ暗だった。死にもの狂いで夜道を走り、台所の裏口からこっそりと家に入ろうとすると父が私をしかりつけた。

「今姉ちゃんが学校まで迎えにいったぞ」父の言葉を黙って聞いた。まさかこんなにみんなで心配していようとは夢にも思わなかった。私はその足で学校へ飛んでいった。姉が学校の玄関の薄暗い所で話していた。相手は大宮先生。彼は私が何時に家に向かったか知っているはず。羽鳥先生が私の家に電話をかけていた。熊田先生が側に立っていた。

こんなにみんなに心配をかけてしまって、私は誤って家に帰って来た。父と母からまたしかられた。悲しくなった来たけど私を思ってくれる気持はよく分かった。これからはこんな事は二度としない様にしようと心に誓った。

考えないで行動してしまったら後でじっくり考えてみる必要がある。

ある日、木の上で本を読んだらさぞかし気持ちがいいだろうと思った。というわけで、木に登った。本を読もうとしたが、とても居心地が悪くて本など読んでいられない。私はすぐ降りてきてしまった。

そこで私は考えた。いろいろな立場をよく考えてから行動しなければならない。夢より現実は厳しくおそろしい。

 

私の中世時代

序文でも述べた通り、この時代に対する私の解釈はまだ確定的ではない。記録も大分残ってはいるが、私の見方がはっきりしないためどの部分をサンプルとして抜粋していいかどうか分からないでいる。そのため中世史を編集できずにいると言うのが現実なのだ。暗黒時代とは一概に言えないが、確かに灰色に時代だった。私はこの当時、小中学校時代を古典古代だったと意識し始め〔人類史の追体験という意識はまだ無かった〕、時には羨望の目で過去の明るかった日々を回想していた。

「苦しめ,死ね、しかしまずお前のならなければならぬもの、一人の人間になれ」というロマン・ロランからの一節と、「真理の探究」という目標を掲げ、私はただ生きていたという記憶がある。

 

 

大学時代―ルネッサンスから近代へ

思想

雪が溶けて、黒い土が茶色になり、野山が黄緑に輝き始める頃、私は大学の門をくぐった。もうない受験地獄。これが私のルネッサンス・文芸復興。あほらしいとさえ言える、棒暗記の受験勉強とやら、さようなら。これからは本当の意味で真理の探究に打ち込むことができる。読書、思索、執筆活動、絵筆をふるうこともできよう。

大学の春は新緑で輝いていた。中学が一緒で、高校で離れていた原田君が同じ大学に来る。彼に又会えたことはうれしいことだった。もう私を操るものは何もない。私は私自身なのだ。かけがえのない一人の人間としての私。行く道を自分で決定し、どんな風に行くかを自分で考える。かごの中の鳥がかごから開放され、大空に飛んでいるような自由を手に入れたい。

私は生まれ育った家を出た。心をときめかせて。アパートを借りて、自分一人でやっていくこと。親に経済的な負担をかけない変わり、封建的な家からの束縛をはねのけること。私の大学生活には徐々に自由奔放主義がはびこっていった。狭いアパートを根城に、昼間は大学の講義を聞き、夜は家庭教師、更洗い、モデル等のアルバイトに明け暮れた。

 

生活

 

 夏休みでT君が郷里に帰ってしまった。もうどうしても取り戻せない。夕方は早く寝た。夜中の十一時ごろ、二人の男の子に起こされる。一人はいつか私の個展を見に来てくれた人で、もう一人は日大生とか言っていた。

鈍さ加減と図々しさを十分見せ付けて帰っていったのは午前二時半。訪ねてくるからには、特に真夜中に人を起こしてまでして一方的にやってくるからには、損をさせない何かを置いて行ってくれるのが礼儀ではないだろうか。うまい言葉とか、優しい心とか。それをしなくてすむような中など、そうざらにあるものではない。

 

XX

私を起床に追いやるなにものもない朝、でも外は晴れている。寝床で本など読んでいるとやはり大学の近くに下宿している妹がやってきた。私がお茶を飲みたいと言うと、妹らしくすぐポットにお茶を沸かしてくれる。彼女が「アダモ」を聞きに来たことは確かだけど。

レコードを少し聞いて、お茶を飲んだ後、妹は長居をしないで帰っていった。私はなぜか不思議に、学習計画を作って机に向かっている。

アパートの下にリヤカーを引いた八百屋のおばさんが来たので、外に出ていってりんごとソーセージを買う。りんごを洗って奇麗に拭くと、描いてみたくなったので筆をとる。あまりうまく行かないので、途中で食べてみた。

夕方Sさんが来て私の最近の作品を見たいと言う。絵は非常にいい、と彼は批評家ぶる。表情が出ているからいい、と言うのだけれど私はなにか気にくわない。よく考えてみれば、絵という芸術は表情が出ると言うことがすべてかもしれないけれど。彼はそれほどの意味を込めていっているのではないことは確か。

Sさんは私の原稿にも目を通した。ちょうどそこへ、哲研の男の子二人がゼミに来る。「今日はゼミの日だったっけ?」と言ってしまって、「とにかくゼミやりましょうね」といちおう破局を避けた。Sさんが私の原稿から何やら書き取っていた。「Uさん(Sさんのガールフレンド)への書き置きなら、私があずかっといてやるわよ」私は皮肉っぽく言った。Sさんはそれに答えずに、にやにやしながら帰っていった。

哲研のゼミを30分ほどで済ませて、男の子達が帰った後、夏の夕方の涼しい風を楽しみながら私は夕食の買い物に出た。買い物から帰って、一人で熱いお茶を飲む。暑い飲み物はT君から教わった習慣。いい気分になってレコードを聞きながら、マーガレット・ミードの論文などを読む。熱いお茶を飲みながら論文のページをくくっていると、ドアがノックされて、「はい、どうぞ」と答えると入ってきたのはW君。

「異邦人ある」

「何故そう用件だけを言わなきゃならないの?とにかくおすわりなさいよ」ついつい嫌がらせが言える仲のW君。

「英訳のならあるけど。日本文の方は誰に貸したか覚えてない。そう誰かに貸したことは事実よ。記憶が確かにあるのだから」

W君のくるくるする目を見ていたら、可笑しくなって急に思い出した。

その友達の所へ急いでいって本をとってくる。待っていたW君に、異邦人ムルソーの、ののしりと狂喜の最後の場面からセリフを読んでやる。読んでいて、異邦人の映画が近く来ることを思い出した。

「映画見たくてその準備に読んでおくの?」

「そうなんだ。僕は人間には3つのタイプがあると思うんだよ。ムルソーはそのうちの1つの典型なんだ」

「あくまでも原則的にね」

「君も3つのタイプに賛成するの?」とW君が聞く。

「3つか4つかはどうでもいいわ」

それからつまらない分類の話をし、W君もそのつまらなさに気付いたのか、「人の気も知らないで」のシャンソンを聞いて、二度も聞いて、「いいな」と言って帰っていった。

「読み終わったら、感想聞かせてね」W君の後姿に言葉をぶっつけたら、W君は振り返って「はい」とすなおに返事をした。「その時3つの分類に付いても詳しく話すね」と付け加えて。表のドアがバタンと閉まる。

T君のため、彼の不在の間の日付だけでも残して置こうと思って、紙を3枚閉じたのだった。3枚くらいで帰ってきてくれればいいなと思いながら。ところが足りない紙。同人誌を一緒にやっているX君が「鉛筆ですいすい書いたら、スゴク書きいいよ」と言って、私にくれた紙だ。紙の枚数をもう少し増やそう。ほんの少しだけ。落ちついて待つことを学ぶために。

この世の中にあなたがいないなんて考えられない。それほどあなたは私にとって確かな存在になってしまった。あなたの微動だに私は見逃したくないということをどうか許して欲しい。あなたの指先が神経質そうに前髪を書き上げる時、あなたは私を見る。そして果たして、見る方はどちらで、見られる方はどちらなのか?それが疑問。

ルターの著作とホフマンの「ドン・ファン」を読んでいたのだ。ルターとドン・ファンのいったいどこが違うのか。とにかくどちらも強烈さにおいて似ている。「人間よ、そしてまた、あなたも人間だったのか」と、そんな風に語りかけてみたくなる人たちなのだ。

モスクワ放送のラジオが、夜のしじまの中で「どなた様もごゆっくりとおやすみなさい」と告げた。どなた様も、ほんとうにどなた様もゆっくりやすめるのだろうか?

 

X年Y月Z日

朝の目ざめが少しにがい。Yさんにモデルを引き受ける手紙を書く。画家や彫刻家だが、どこに連れて行かれるかは分からない。

教は私が家庭教師をしているやっちゃんが私を訪ねてくる予定だ。無事来られるだろうか。読書感想文を持って、私のアパートに始めて来るのだ。やっちゃんは、「星の王子様」の読後感を書くと言っていたが、どうなっただろうか?

「星の王子様は私大好きよ。でも恐いぐらい、夜寝る時も思ってしまうんだもの」と言っていたやっちゃん。いとこの家に引き取られて、親は群馬にいると言う大人っぽい中学生だ。万能選手のくせに自分は何もできないと言う。時には何でも分かっているような顔もする。私が夕方子供部屋で待っていると、疲れた体を私にぶっつけてくる。

教はそのやっちゃんを私の部屋で待っているのだ。サルトルの「方法の問題」を読みながら。学問とは待つことかもしれない。じっくりと腰を落ち着けて待つ忍耐力を持つもののみが学問をなしうる。芸術は飛び回る。人間にとっては学問も芸術も大切なのだ。

やっちゃんが遠慮がちにノックして入ってきた。落ち着かせてあげたい。昨日は学校の運動会だったという。

「天気がよくてよかったわね」

「でも運動場はぬかっていたのよ」

「おなかすいているんでしょう。焼きそば作ってあげるから、感想文の最後の仕上げしておいてね」

私は台所に行った。彼女は熱心に書いている。

「できましたよ。あなたの嫌いなニンジンを小さくして入れちゃったわ」

「先生ってお料理下手だとおっしゃったでしょ」

「そうよ。でもやっちゃんの体が何を必要としているかはよく分かるの。それに料理にかけても私は芸術家のつもりよ」

やっちゃんは湯気の出ているやきそばをすぐさまたいらげた。お茶を出したら、ありがとうをいい、お茶をすすりながら、又書き始めている。仕方なく、私も「星の王子様」に付いての感想をまとめてみた。

「星の王子様はいつでも私の側にいるような人だ。私の考えることやすることを、どこからともなく見ているような気がする。星の王子様は透明の人間なのかもしれない。人間の心を人目で見抜いてしまって、自分はいつもひょうひょうとしている。体は空気の湯に軽くて、どこにでも飛んでいき、人間のすることすべてを見ている。王子様は子供ではない。大人でもない。子供のように純粋な心を持っている上に子供ではできないほど独りで超然としていることができる。ただこの物語を読んで、私が悲しいのは、飛行中に星空に消えてしまった作者サン・テグジェペリ。星の王子様と二重映しになって、この作者の姿がくっきりと星空に浮かび上がってくる」

やっちゃんは読後感がまだ終わらないとこぼしながらも、満足げに帰って行った。どうやら私のアパートを訪ねてみるのが彼女の狙いだった様だ。

やっちゃんが帰った後、大学内を散歩する。哲研のA君に会う。

「何やっているの」とA君が聞く。

「ヤスパースとか、マーガレットミードとかね」

私が散歩しながら抱えていたのはマルクスの本。私にとって金に恵まれない今の私にとって、マルクスは骨身に徹してうなずけるのに、心がぴったりと付いていけないのはなぜだろう。

散歩から帰って夕食をすませ、夜の九時になるのを待っている。やっちゃんの読書感想文を電話で聞いてやることになっている。夕方降り出した雨の中を、傘をさして電話ボックスまで行く。

「星の王子様はどうしても難しくて銀色ラッコの涙に変えたの。読むわね」

動物と人間をテーマにしたもろもろの童話。銀色ラッコの涙はその一つだが、描写がすばらしく色彩感覚にあふれているだろうことが彼女のあらすじからもうかがえる。

「あらすじにおのずからその人の感想が入ってしまうものだけれど、最後に本を投げ出してみて、読んだ後の印象も書いたらもっといいわね」

「あらすじはいいですか」

「そうね。ピラーラとラッコに信頼が取り戻せたあたりのクライマックスで飛んでしまった感じがしたわ。その辺をもっと考えて見て。あとはとてもよかったわ」

「ありがとうございます」

「じゃ、がんばって仕上げてね」

「さようなら」

そして私は雨の中に出た。電話を待っていた二人連れが、二人一緒にボックスに入ったのを背中で感じた。

また夜だ。一人になって音楽など聴きながらあなたのことを思っている。あなたは私の恋人の抽象。だからあなたは私の恋人ではない。私にとってだけいるのだから。あなたは私なのだから。私以外のなにものでもないのだから。

私は時々不思議になる。あなたとはいったい何なのか?私を支え、私を動かす。私の幻。つぶされてなくなったりすることのない幻。吸い込んでも吸い込んでも、存在し続ける幻。

 

X月X日

今日の朝はなぜか軽やかな気分だ。ヤスパースを読みながら、窓の外を見る。空は灰色だ。小鳥が鳴いている。今日はレストラン花村へアルバイトに行く日。経理の仕事がたまっているはず。

花村へ行くと、お母さんが顔をほころばせてよろこんでくれる。三時間だけで仕事をすませ、喫茶店アリによる。芸術家だと自称するおじいさんと話す。八十六才だと言うが、六十才そこそこにしか見えない人だ。工芸家だそうで、今度県から表彰されると言う。

「僕の手を見てごらん」なるほど光沢がある。

「人間もあるていど緊張した生活をしていると指先まで生き生きとしてくる訳ですね」

「そうなんだよ」

「指先まで芸術家なんですね」私は彼の指先を見つめながら言う。

「モデルの仕事をもっとしたいんだったら紹介してあげますよ」彼は大家を何人となく知っていると言う。

「後で電話しますよ」

「ありがとうございます」

彼は喫茶店を出ていった。窓からは午後の日差しがあふれそう。その日差しを見つめながら、午後のひとときを過ごそう。夕方には家庭教師のアルバイトが待っている。

アリを出ようとしたら、レジの人が「先ほど先生がすませました」という。私は心の中で「ありがとう、おじいさん」と言い、夕方の街を家庭教師の家に向かった。

小学一年生のみちよちゃんが子供部屋で遊んでいる。お手伝いのお姉さんが運んできてくれたお茶を飲みながらお菓子をつまんで、二人でアンデルセンの人魚姫を読む。サディズムと決め付ける前に、生々しく美しい人間を見る。人間讃美と風刺が根底にあるのだろうか。欲望の大きさと心の優しさではなにものにも引けを取らない人魚は、最後にはキラキラと光る海の波の泡と化していく。

「みちよちゃんは作文がうまいのだから、人魚姫のあらすじを書いてみてくれない」

「あらすじって」

「あらすじってね、人魚姫を読まない人にでも分かるように、人魚姫のお話を短くまとめることよ」

「じゃ、みちよ、やってみるわ」彼女は鉛筆を持って、大きな瞳を閉じる。

(Greatly Skipped Here)

 

世界旅行―近代から現代へ

出発

  誰の見送りもなく、マークと二人で、日本から出るともなく出ないともなく去って行く。というのは、飛行機とかで出るのではなく陸路、海路、九州から沖縄を経て台湾に行くことになるから。少しずつ日本を離れる準備をしながら去ることになる。マークとは70年前後のベトナム反戦運動で知り合った。東京から日本を縦断して沖縄に行き、そこから台湾、ホンコン、タイ、ラオス、ネパール、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラク、トルコとアジアを横断し、ヨーロッパに入る計画だ。ヨーロッパから米国へ渡るつもりだが、旅費はどこまで続くか分からない。

いよいよ出発だ。世界へ。日本と言うちっぽけな、しかも尊い国にぽつんと生まれてきた私が、人類の歴史を追体験したと自覚するにいたるまで、私を見守ってくれた人達、さようなら。母上、父上、さようなら。塙先生、熊田先生さようなら、原田君、それから大学の友達、さようなら。本多先生、水戸の梅本先生さようなら。姉妹、勝一さん、さようなら。それから誰でもいい、日本の皆様さようなら。

 

水俣

糸魚川から日本海を見て京都、岩国、それから九州へ。水俣では日本を出る前に会っておきたい人達がいた。水俣病の裁判闘争をしている川本さん達。日本の戦後の経済成長の歪みを一身に受けた人達。文字通り血まみれの戦いを通して、真実が勝利することに命を賭けている人達。

夏の終わりの水俣の街は、埃っぽく白々としていた。川本さん宅を訪ねると、川本さんはあまり私のことも聞かないまま、お茶とお菓子を出して歓迎してくれた。縁側に座って、前庭に咲いている晩夏の花を見つめながら、私は彼の話を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。裁判が一応勝利してから、闘いの方向性をどうするのか、チッソ側の欺瞞性、犯罪性を身にしみて知っている川本さんは、彼らの唯一の論理、金の力ですべてが解決されるはがゆさを語っていた。

そのはがゆさ、苛立たしさを私も共有できるのだろうか、と頭の中で繰返しながら、その夜は遠見の家に泊まった。水俣映画の製作者の一人が滞在していた。

 

沖縄

沖縄丸で鹿児島を出、沖縄に向かう。沖縄は日本に返還されたのだから、日本の一部であるはずなのに、沖縄丸の船上から青い海を見つめていると、日本を出て行くのだと言う感慨が深くなる。あの国で、できるだけのことはしたのではないか。何の悔いがあろう。日本を飛び出していくことに心残りはないはずだ。

マイホーム族の住むマッチ箱のようなアパート群、さようなら。昔からのしきたりで人の目を気にしながら生きている姉上達、さようなら、将来何か本当によいことがあります様に。

高い波しぶきを浴びるようにして、私が水平線のかなたを見つめていると、マークが側に来て言う「沖縄はとってもいい所だ。何度来ても飽きない。海の底まで見えるし、人々はとても暖かい。米国に帰ってからもまた来てみたい所の一つだよ」

私はただ「そう」と言いながら黙って聞いていた。沖縄賛美と何回でも沖縄を訪れたいと言うマークの発言は、日本を出て行くという感慨にふけっている私を慰めようとするものに違いなかったが、私は慰めなど必要としているのではなかった。ただきっぱりとさよならを言いたかっただけ。

沖縄、那覇港に着く。沖縄は日本でも、米国の一部でもないという雰囲気。人々がとても親しみやすく、明るい国。どのような歴史を背負っているにせよ、人々が生き生きとしていて、とても楽しそうなのはなぜだろう。沖縄には二、三日の滞在だが、マークが言っていたように又来てみたくなる所だ。

貨物船USコロラド号で沖縄を出、明日台湾に向かう。沖縄で偶然一緒になったビルが旅の道連れとなる。ビルもやはり米人で、ベトナム戦争への良心的兵役拒否を申し出る米兵に対し、手続上の、あるいは心理上のカウンセリングをしていた。日本滞在を終えて今米国へ帰ろうとしている。時には逃亡兵もいたりして、ビルのカウンセリングは困難を極めたが、持ち前の合理的精神を生かし、米国での市民権運動の経験もあり、任務を何とか全うできたと説明していた。新任のカウンセラーが日本に着いたのでやっと米国に帰れるという。

ビルがマークと私について来る。三人よれば文殊の知恵だ。三人は世界旅行に際してのそれぞれの役割分担の図を描いた。ビルが細かい計画や旅行案を作る(Planning)、マークが実行に移す時の責任者(Execution)、私が人々に接したり、通訳をしたり実際の場面をさばく(PRMarketingOutreach)。役割分担が決まると、ビルは各国の地図を買い込み、私はアジア諸国語ブックレットを買う。そんなことをしているうちに、三人の結びつきと世界旅行への意欲がますます強まる。

 

アジアの国々

台湾、ホンコン、バンコック、ラオス、チェンマイと、何でも見てやろうと言う意欲で、三人はアジアの旅を始めた。船に乗ったり、飛行機に乗ったりするのは、バスや徒歩では行けない場合だけにする。

台湾では中年以上の人々は日本語が分かるみたいだった。キルンからタイベイへのバスの中で、一人の老人が私をにらんでいたように感じたのは気のせいだったのだろうか?

ホンコンは不思議な所だった。古いものと新しいものが雑然と入り混じっている。古い世代の人々は中国服を着て、マーケットはねずみの巣の様。でもそこから高層ビルが林立しているのが見える。

ラオスはのびのびした田舎だった。ビエンチャンのマーケットで知り合った力車の運転手が夕方いい所に連れていってやるという。私とビルが行くことを決意、マークはホテルに残ることにした。力車には二人しか乗れないのと、マークは体が大きいためやせ細ったラオス人の力車に乗ることを快く躊躇したのかもしれない。力車はビルと私を乗せてメコン川沿いを流れるように走った。運転手は自転車の一人乗りとなんら変らない身軽さで夕闇の川沿いを走り続けた。「どこへ行くのだろう」と不信がるビルに「彼に任せましょう。どこへでも彼が連れていく所へね」と、私は平静を装った。

450分メコン川沿いの田舎道を揺られたと思う。運転手は川沿いの村の一軒の小屋の前に止まった。一日の仕事の疲れも忘れたように運転手はニコニコと私たちを小屋の中に案内した。川岸の小さなその小屋には、円座をつくり、すでに若い男達がすわっていて私たちを招き入れた。ギターを弾く者もいるし、ガンジャを吸っているものもいた。なるほど、この運転手は私たちにマリワナを売りつけたかったのか?

私とビルは、運転手とともに、円座に加わった。後でべらぼうな額を請求されても困るので、まずお金を見せて「How much?」といってお金を見せると「Non, non」と言う。

マリワアを売りつけるどころか、一緒に吸うのは友達のしるしということなのだった。私とビルは質のいいガンジャを円座で楽しみ、岐路についた。力車の運転手はビエンチャンのホテルまで送ってくれた。せめて力車の代金を払おうとすると、運転手は微笑みながら、また「ノン、ノン」と言った。私たちの警戒心は、やさしい心につつまれ、冒険心、誇りで満たされていった。

タイのチェンマイで私とマークは悪夢のような病気をした。食中毒だったのかもしれないが、私の方はすぐ回復した。病気中の私の耳に響いて消えなかったのは、カタカタカタカタ、、、力車の運転手が汗を流して走り回る音だった。私はよくなると、マークの大きな体をささえてトイレまで連れて行ってやったりした。

 

歩いたところ

国境という白線が引かれていたわけではなかったのに

パスポートをもち

長い列を作って待った

 

歩いた国々

人々はどこへ行っても同じなのに

ある境界線で国々は区切られ

人々はお互いに笑みの見えるところで

離れ離れに

隣人を敵として戦ったりしている

 

ネパール

バンコックからネバールへ飛ぶ。ビルは一足先にカトマンズに飛んでいる。ガールフレンドとカトマンズで落ち会うことになっていたが、うまく会えただろうか?

ネパールの体験は特別だった。人々は牛やサルと共存して生活し、貧しく生きていた。時間と空間がとめどなく広がる国。古い寺院と山奥の生活は、2~3000年の人類の歴史を簡単にかき消し、エベレストを仰げば視野が無限に広がる。

ネパールは歴史をもてあましている。すべてが牛のようにのろい。革命前の中国がそうであったかもしれない。何らかの変革が急速に必要なのにそんなことなど忘れていられる国なのかもしれない。

ネパールでアジアの旅の頂点に達した感じがしている。アジアの国々はみな一様に貧しかった。そして人々はなんとなくその貧しさを克服しようとしてたたかっているように思えるのに、ネパールの印象はそれと違う。人々は自然と宗教の中にすっぽりとはまりこんでしまって、他の世界から自らを隔離している。

マークと私はネパールの生活にピリオドを打ち、インドへ向かう。ビルはもう少しネパールに滞在したいという。

インドのラクサルまでバスの旅。約10時間バスに揺られる。途中で村の祭りを見たりする。みんな愉快に歌い踊り、太鼓をたたいたりしている。農業研修事業所でバスが止まって、乗客は、ネパールでは見たことも無いような大きな大根を買い込んで来た。

インドの印象はカトマンズと比べてやや戦闘的。駅の構内には多くの人が寝転んでいる。汽車を待っている人々だろうと始めは思ってみたけれど、どうやら様子がおかしい。夜の帳を駅の構内に求めて、言わばそこを住居としている人々だ。比較的豊かな人々が出入りする公共の場所は物乞いにももってこいの所。

ネパールからのバスがビルグンに着いた時、バスの屋根からおろされる荷物やバッグなどを、バスの到着を待っていた人々が奪うようにしてとる。あれや、あれや、と見ているうちに分かったことは、彼らは力車の運転手で、旅行者は自分の荷物をとった運転手につれられてホテルに向かうと言うことだった。運転手はホテルからもコミッションをもらっているのだろうか?これが私とマークのインドの始まりだった。

ラクサルからは汽車の旅、ニューデリーに向かう。山と谷と彫りの深いネパールを後にどこまでも続くインドの平原を汽車は走る。

側に座っているインド人が、私とマークにカシミールへ行くことを進めている。彼はカシミール出身で、カトマンズで何かの事業をしているという。

カシミールはインドで見られる唯一のところだと、このカシミール人は自分の故郷を誇る。カシミールでは雪も降るという。

カシミール人のスリーパーで私は夕方6時から夜中の2時ごろまでぐっすり寝込んだ。午前2時ごろ車掌がきて私をスリーパーから下ろせといっている。私は目を見開いて、車掌の顔のすぐ前で聞いているのに、女には何も話さないのが方針みたい。インドにおける女性。汽車の中でも男は怒鳴るようにして話しているのに、女は牛のように黙って聞いている。聞いていないようでもある。

アグラでインドの脅威を知る。壮大なタジマハルだ。千年も前にこのような建築事業を果たしたインド人。インド人がいかにビジネスに長けているかもアジア各地で証明済み。それなのに、貧困はこの国土をおおう。

レストランのテーブルには数え切れないほどのはえが這いまわり、レストラン経営者は卵を戸棚にかぎをかけてしまっておく。従業員が食べてしまわないようにという。

タジマハルの近くに安い宿を借りて、マークと私は2~3日滞在することにした。いかにインドの町が汚くて、牛とこじきがうようよしていようと、人々が生活を続けている限り見聞に値するというのが私の信念。人々が何を感じ、何を求めて生きているのか、そこが知りたいと思う。

 

ラフィーク

タジマハルの近くで会った力車の運転手ラフィークは、ラオス、タイ、ネパールの町にならどこにでもいるハスラー。でも、ハスラーとだけではいいきれない人間らしさを持っている。金よりも友情だといい、本当にそう思いながらも金がほしい、ラフィーク。

ラフィークが日曜日の朝私たちのホテルに来るという。約束通りラフィークは友達を連れてやってきた。日曜日だから、お金は取らない、そこいら中を案内してやるという。

私とマークは一日中ドライブを楽しんだ。ラフィークは「日本に帰ったらトランジスタラジオを送ってね」、と言って自分の住所を書いた紙切れをくれた。いつになるかは分からないが、送ってやると約束する。本当のハスラーならこのような約束は信用しないはず。

 

現代

一 娘、ちえこの誕生

 

ちえこが生まれたのは日本を出て世界旅行を終え、米国に落ち着いてから三年目だった。サンフランシスコでアパート住まいをしながらお金をためオークランドに家を買って移ってからだった。

予定日の三週間前から産休を取ったのだが、ちえこは二週間あまり早く生まれてくる決意をしてしまっていたみたいで、予想が外れ、それはそれはおおわらわだった。ちえこが生まれたのは4月14日、その日私は仕事をしているときには会えないような友達を訪ねて夕方ラッシュ時のベイブリッジをやっとこさ渡り、家にたどり着いたとたん破水。というようないきさつだった。

マークはまだ帰っていない、どうしよう、一人でまた車を運転、サンフランシスコのジェネラル・スピタルまで行かなければならないかも。まずビルに電話をかけ、友達、友人関係に連絡をしてくれるよう頼む。病院へ行くのは近所の人にあたってみて、誰もいけなかったらまたビルに電話をすることにする。サンフランシスコに住んでいるビルがオークランドまでシュ時に来るというのは時間の無駄だから。

隣のキャシィにまず頼む。できるだけ静かに階段を上っていく。キャシィの3歳になる女の子が「水があふれてしまったら、プラマー(下水管工事をするひと)を呼べばいいでしょ」と真剣そうにアドバイスする。私とキャシーは思わず笑う。破水してから子供が生まれるまでの時間はだいぶあると経験豊かなキャシィが言う「夕食前でなければ行ってあげたんだけど。ごめんね」

下半身、ズブズブに濡れたまま、長い階段をまた下りていく。道を渡った向こう側のキモに頼んでみよう。子連れの女はあまり当てにならないと母がよく言っていた。現実的な発言に違いない。

キモは喜んで引き受けてくれた。座席のクッションが無くて、彼のスポーツカーはガタガタしていたけれど、一人で車を運転していくよりはずっと心強かった。

ちえこは真夜中にやってきた。私の書置きを見て遅ればせにやってきたマークはカメラを抱えて一部始終を写真に撮った。逆子だったちえこは血だらけになって出てきた。人生の初めの闘いがあまりにもすさまじかったので、ちえこはファイターになる運命を背負っていたのかもしれない。付き添いの専門家は、医師、看護婦その他10人ぐらい。医者をしているお友達のケンも来てくれて夜勤の医師とうまくチームワークをしてくれた。そのような友達、専門家に囲まれて私は安心しきって、血だらけのちえこを押し出すことのみに専念できたのだと思う。

マークは生まれたての娘を抱いた。看護婦が血を拭いても、真っ赤に泣いている赤ちゃん。マークの感激は並大抵のものではなかった。

「子供を産む女性の労働は、男性のどんな肉体労働も及ばない」などの自尊心の強い彼の口からは、珍しい発言。疲れきった私は、誉め言葉より睡眠がほしい。とにかくぐっすり寝たい。妊娠の疲れ、仕事の疲れ、出産の疲れ。。。そんなうとうとする中で、私がちえこへの愛情に芽生えていったのは、乳をほしがる一個の人間を、その生命と欲望を彼女に見て取るようになってからだった。横に寝ている彼女を見つめながら、満ち足りた気分に浸り、病院での三日間は瞬く間に過ぎていった。

マークは、私とちえこが病院にいる間、予定より少し早く到着した娘のために、買い物やら洗濯やらで夜も寝ずの忙しさ。2週間ほどの産休をとり、ハウスキーピングの責任のすべてを引き受けた。それに看護婦をしている私の女友達が手伝いにきてくれたので、わたしにとっては産後の肥立ちは思いのほか快適なものとなった。

 

教師

サンフランシスコの学校区で先生の補助をしながら夜間大学院に通うことになった。学校区で学費を払ってくれ、大学院修士課程を卒業、カリフォルニア州教員免許を取り、公立学校の教師になるのに3年かかった。普通は2年ですむのだが、悠長に構えていたのと、ちえこが生まれたりしたのとで、3年かかった。何をするにも寄り道をしたり、いろいろと探索をするので時間がかかるのは小さいときからの癖である。小学校では帰り道などわざと回り道をしたり、山歩きをしたりして、家に帰り着くのに2時間ぐらいかかったこともある。親が冷や汗を流して心配するようなことがなかったのがいまだに不思議。

修士課程の専門分野は「複合文化教育」。馴染み深いように聞こえるタイトルだが、なかなか難しい分野だ。自己矛盾するタイトルでもあるからか。ある特定の文化というのは、他の文化と対比して存続するのに、複合(マルチカルチャー)とするからおかしくなる。この分野の研究はまだまだである。人間の頭脳の研究でもあるのではないか。人類の進化の過程で、色々な文化歴史を遍歴するのはわかるがそれを一個の人間が複合文化という形で体験するとしたら、それを教育するとしたら。。。という想定になる。小さいときから複合文化を教育すればそれが頭脳のどの辺に蓄積、維持されるのか?

私のバイリンガル・複合文化教育は私自身の理論と経験に基づくものとなった。教師として自分のクラスを持ち、カリキュラムが確立されていないバイリンガル教育を施すということはだいぶ勇気のいることに違いない。そのような公立学校のプログラムに子供を送る親もだいぶ勇気のいる行為であると思う。

私のクラスは日系人、白人、黒人それぞれ三分の一位づつであった。小学校三年生、学校生活も軌道に乗り、勉強の量と質が飛躍的に増す時期だ。私は午前中の英語、算数、社会、理科などの科目ではすべて英語で教え、午後には美術、音楽、体育などを入れ日本語で教えるという形を取った。子供たちも午前中は日本語を話さず、午後は英語を話さないという学校生活になれていった。日本語を話さないという午前中はいいのだが、午後は無口になることが多い。絵をかいているときはそれでいいし、歌を歌っているときはほとんど何語でもいいのだから、午後はニコニコしているだけでいいのである。家庭では日本語を話さない子供たちが日本語でものを考えるようになること。少しづつ表現することを覚えていくこと。子供たちは英語が話せる午前中は自分の英語を大切にし自己表現をできるだけしておこうとする。

肝心なことは、二つの言語をごちゃ混ぜにしないこと。子供は自分になじみの深い方の言語を期待し、要求し、話し、絶対にバイリンガルになどなれないからだ。午前英と、午後日本語という方法は、子供たちのとっても長い一日を二つに分かれるということもあり、子供たちに変化をもたらし、結果として子供たちは学ぶ意欲に満ち満ちていた。絵画や音楽、体を動かしながらの日本語と、難しい言語を少しづつ身に付けていった。

問題なのは、公立学校のバイリンガルプログラムとして、全学年を通して統一された指導計画がなかったこと、バイリンガルプログラムに興味も関心もない教育課がプログラムを連邦政府からくる資金獲得のためだけに運用しようとしていたこと。未熟児として誕生した米国のバイリンガルプログラムは夭逝することを運命付けられているのだろうか?それとも英語圏に入る国々では英語が国際語として確立されてしまっているため、他言語取得への要望が高くないのかもしれない。

教育論、方法論はたておき、私の小学校は規律、しつけ問題でおおわらわ。これはこの学校ばかりに限ったことではなく、アメリカの特に大都市の公立学校が直面している問題。従来の家族、家庭が崩れていく中で、片親家庭からくる子供がクラスの半分を占めることも普通である。片親家庭のほとんどが母子家庭。家のごたごたを学校まで引きづってくる子供たちの間ではけんかが絶えない。些細なことで怒りをぶつける。教師によっては生徒と怒鳴りあう人もいる。白人ばかりの教職員に、圧倒的な黒人生徒という人種問題。白人が先生、先生が自分の親や兄弟のような顔をしていない。そのような時、子供は自分の親をどう見るのか?先生にどう対処するのか?自尊心はどうなるのか?人種問題、豊かな社会の貧困問題、家庭の崩壊等々、数え切れないほどの問題を抱えて、公教育という混迷の道は果てしなく続く。米国の学校は監獄化しているとよく言われる。銃を持って学校にくる子供がいれば、ゲートで持ち物をチェックしなければならなくなる。監獄にたとえられる学校という場で、自由と創造性の追及という教育は可能なのか?

 

教員ストライキ

サンフランシスコの教員がストライキの決議を行った。4000名近い教員のほとんどが投票でもって、あるいは心情的にストライキを支持したのである。米国では期限ストというものがないので、ストに突入すればいつ終わるか分からないのである。

このストライキの真っ只中、アリオト教育長は、一日90ドルの臨時教員を雇って、強引に学校を開いた。私はピケに参加するつもりはなかった。教員としての年季が短かったため再雇用される可能性はまずなかったからだ。しかし、1000人以上の解雇は食い止めたいという気持ちがあったのと、私が働いていたアンザ小学校のピケット状態を確認したかったので、組合集会後アンザ小学校へと車を飛ばした。

予想した通りピケを張っていたのは、アンザの教員たちではなかった。組合から送られてきた何処か別の学校の教員が二人だけ、さびしそうにプラカードをもって立っていた。

車の中から支持のジェスチャーを送ろうとしたとき、二人はすでに帰るように決めていたらしく、校門の前に止めてあった車に飛び込んだ。義務的にピケの任務を果たした後去っていったのだ。学校の入り口を右に曲がって、校庭の見えるところまできた。校庭で遊んでいる子供は数えるほど。父兄がストライキを指示して、子供を学校に送らないのかもしれない。学校の周りをぐるりと運転する。

私に再雇用のチャンスはあるのだろうか?年季の少ない教員はすでに解雇通知を受け取っているので、ストライキ中に臨時教員として働いて忠誠心を見せない限りチャンスはない。臨時教員として働いても再雇用の保証にはならないが、少なくとも教育課に手向かわないという態度を示すことにはなる。でも、それは私にはできない。

私はまた教室のほうを見た。あの教室の中へどやどやと入ってくる子供たちを微笑みながら待つ、そんな楽しい日々はもうない。教師としての仕事は、やり方次第、心のもち方次第でとても満ち足りたものになる。

子供たち一人一人の独自の創造性に驚き、こちらの創造性も触発され、いろいろなプロジェクトを夢見、実践する。あの生活はもう戻ってこないだろう。それはそれで私の人生の区切りになるのかも。

サンフランシスコの教師がストの決議をしたことに不思議はない。千二百名の教師が首切りになったのだから。大量解雇もストもたいしたことではない。大騒ぎになったのはストが延々と続いたからである

組合の集会は、毎日午後一時に始まる。ほとんどある特定のコミュニティ会館で開かれることになっているが、時にはゴールデンゲート公園で行われたりする。千人近くの教師がどこからともなくやってくる。教師による楽団も組織され、なじみの曲で疲れた心を慰めようとしているようだ。ストライキのTシャツで集会場は花畑のようになる。いろいろな花の花壇ではなく、黄色い原色の菜の花畑だ。Tシャツには「私はピケに加わりました」と書いてある。組合をサポートする証言だ。このTシャツは、アセンブリラインで何千着と製造、教員、その家族、友達、支持者に販売される。

 

ストの終結

教員ストも終わって、再雇用された教師は学校に戻っていった。特別の場合を除いて8年の年季が再雇用されるかどうかの境目という。ストは2ヶ月も続いたのに、ある日突然「もう勝ち目がない」という組合会長氏の決意とともに、組合側はあっさりと妥協してしまう。

七年間高校の教師をしていたマイケルはとても歯がゆい思いという。黒人の高校教師は数えるほどしかいないうえ、ほとんどの黒人教師は最近雇われたばかりで若い教師。彼等の首が危ない。ストが終結した次の日私とマイケルは電話で話していた。

「マイケル、子供を学校に送っている親が立ち上がらない限りこのストには勝ち目がなかったと私は思う。先生は少しづつピケをくぐってしまうし、教育長はとても妥協する人ではないし。先生たちは疲れてくるし。スト中ストライキ臨時学校が設置されるべきだったのに、それほどまじめに組合が考えていなかったんじゃないかしら」

「あちこちでそんな臨時学校の試みはあったって聞いたけど」

「そう、私もそんなグループを作ったんだけど、2~3日で教育課がきてつぶしてしまった。支持してくれる父兄もいて子供は50人くらい集まった。子供達は臨時教師のところへ行くより、馴染み深い先生のところへ来る方が嬉しかったみたい。公立学校を守るんだって言う意気込みで、父兄との討論や交流が行われた。三日間しか続かなかったけれど。。。やはり組合に支持されて、大規模にやるべきだったのかしら」

続けたらきりのない私の演説をマイケルは黙って聞いていた。公立学校を支持しなければいけない根拠などじっくり考えたわけではなかったので、私の言い分は空虚に聞こえたに違いない。マイケルは完全に解雇されたわけではなく代用教員(サブ)になって毎日違う学校へ送られるというが、そんな仕事ならまったく違う職業を選ぶとマイケルは言う。公立学校を支持する理由は何なのか?これが基本的な疑問となって出てくる。組合が最終的に教育を決定する。教育は公立学校でなくてはいけないのか、という根本的な問いかけが必要みたいだ。マイケルがどこか私立の学校で教えられるといいなと思う。

 

ともだちよ。

なぜか分からないけど

あなたたちといると

私は年の隔たりのことを忘れるのです

長い道のりを歩いてきた私なのに

未だ出発したばかりのあなたたちと

同じ所を歩いているんじゃないかって

そんな気になるんです

あなたたちはとても真剣そうに質問しますね

ときにはかくしごともしますね

あなたたちにとってとても大切なことがあるんでしょう

 

あなたたちと歩きながら

私は考えてみる

なにを教えることができるだろうかって

まじめになって考えてみる

何かとても大切なことを教えないでいるのではないだろうか

人々や世の中が時には間違いをすることがあるから

いつも考えてみる

何か忘れてしまって、あなたたちに教えないでいることがあるのではないかしら

 

これは英語にして子供たちに読んでやった詩。完全に教職を失った今、子供たちから無理やり離されるという感慨があった。

 

スト後

大学に入った17歳のときからアルバイトをしながら自活したせいもあって、もう長い間働きつづけたという気がしている。働くことは大切だが働きすぎるのはよくないなどと考えたりして、職無しを正当化し、失業保険をもらったりしている。人生の何処かに、立ち止まって考える時期があってもいい。走りながら考えたり、早足で歩きながら考えることもできるが、深呼吸して、じっくり血液を脳に送ろう。

 

マークは2年前から法律学校。ちえこはすでに2歳。私が親子三人の生活を支えてきた。仕事なら何でもいいとは思うけれど、教職関係が向いている。「あまりお金を使わない生活をすれば何とかやっていけるさ」と簡単にマークは言う。しかしながら、彼の心配振りは顔に見え隠れしている。

 

法律学校はもう一年、ちえこの保育費は低所得者という資格をもらい、無料に近い。無理してもマークのように考えよう。この辺で母性本能を出しすぎると家族崩壊か。船が沈みそうなときはじたばたしないこと。

 

 

キャブの居候

 

マークの友達キャブが居候している。キャブは以前マークと同じ工場で働いていたことがある。キャブは40歳前後の黒人で、成人した子供もいる。前の妻君と別れ若い女性と再婚したのだが、彼女が長期里帰りという。高いアパートに一人でいるのも無駄ということで、我が家に住み付いた。

 

夕食のときキャブが言う「オレはあの工場で仕事が終わると、他の会社にふっ飛びそこでまた4時間パートの仕事をしていた。仕事というよりただ立っていることが役割だったのだけど」

 

「私はそんなに働きたくないわ。働いて働いて、無駄金を使うんだったら始めから自分の好きなことをしてじっとしていた方がいいんじゃない?ところで、キャブ、ここにいる間の部屋代と食事代入れてね」

 

「マーク、ミヨコはアメリカ人?日本人ってこんなじゃないよね?」

 

それに答えてマーク、「キャブおまえ日本人の猛烈振りしらないの?おまえは僕の友達さ。いたいだけここにいてもいいよ、ね、ミヨコ」

 

私は開いた口がふさがらないという感じで、夕食後マークが階下に勉強に下りていった後またキャブと口論。トゲトゲする自分を惨めに思った。

「ミヨコ、アップルパイ作ってくれない」

「キャブ、あなた自分で作れんでしょう?自分でアップルパイ作りなさいよ」

「いやだよ。そんなら買ってくるね。ケーキとパイがとてもおいしい店を知っているから」

 

キャブの作ったパイでなければ食べないといってみたものの、彼の方では買ってくると決めたみたいだった。後でマークに聞いたところによると、キャブは腕の立つ料理人だという。

 

詩人

 

詩人はもはやペンを取らない。初夏の朝早く、窓の外にこんもりする緑を眺めながら、詩人は日の出を待っている。深緑の木立の中からは、人々の叫び声や泣き声、笑い声、討論する声などが聞こえてくる。

現代人は現代の重みをどこまで背負えるのか?詩人はため息をつく。詩を忘れて絶望に浸り始めてから久しい。

「核の問題、南北の不均衡、先進諸国対第三世界の問題、世界の食料と燃料問題、教育の将来、どれをとっても人類の存亡にかかわる問題なのに、現代世界では大国の政治家の思いのままに動かされている。人々は口をのりするために、毎日の生活に追われ将来の見通しもなく、将来の生活設計は何もない。たとえ将来の生活設計などがあったとしても、其れは自分個人の生活の夢に過ぎない」詩人は,詩の王国から見捨てられ、未だじっと夜明けの森を見ている。

「詩人よ、君の言う通り、人間一個の人生はそんなに長いものではない。一生懸命働けば、誰でも成功できるさ。誰もが成功できれば、其れが人類の成功となるわけさ」とささやく声が聞こえる。続けて「現代世界の重みなんて大それたことを考えるものではない」と言う。まるで命じているような調子である。

詩人はきいたふりをしている。そのような言い分ははじめから分かっている。問題なのはそのような言い分通りにならない詩人の魂を背負っていることだ。耳もとでうるさく囁かれるのには閉口する。

「うるさい。迷惑だ。行ってくれ」詩人は払いのけようとして叫んで見るのだが、一向に効き目がない。その声の主も相当粘りつよい。

「現代人は、現代の重みにどう対処すればいいのか?」詩人は未だ自問自答している。

「愚問はよしたまえ。それは単なるレトリックというもの。現実と歴史は客観的情勢と、それに揺り動かされている大衆によってつくられていく。君が持っていると信じている詩人の魂なんて路上の石ころのようなものさ。けとばされて、割れて、風化し砂になっていく。歴史に残ることなんてないんだよ。それが客観的現実というものだ」

「詩人の魂と言うものは、抽象的なものでもないし、風化して消えてしまう石ころでもない。私が人類の歴史を追体験してきたと言うことは、まさしく、存在そのもの。そういう意味では石のようなものである。風化という現象もあるかもしれないが、石ころで結構。事実として存在すると言う意味で。私は人類的人間の住む新世界を夢見る。そこでは個人が人類,人類が個人に体現される。個人が自分のことを考えることが人類のことを考えることと限りなく同一となる」詩人は現実と夢想の間をさまよっているのだが、その声音は落ち着いている。

「人間の魅力は、個々人がそれぞれ独立して,豊かに生きていくことである。類的人間などと言う空念仏を唱えると、狂人扱いされるのが落ちだ。私の忠告をよく聞いて、ばかげて空想に浸ることをやめ、現実に戻りなさい」声の主は独断的にやさしく言う。

「人間にとって,独立とは何か。財政的に豊かになり,なんでも手に入ると言うことなのか?それはある程度意味をなし、説得力があるように聞こえる。ある程度と言うのは、物質的に豊かになることはある程度必要であるから。物質的に貧しい間、精神は常に物質をもとめてさまよう。そのような状態にある精神は貧弱だ。だからと言って物質的に豊かになった人間の精神が豊かになるかどうかは、まったく別の問題である」詩人は未だ主張している。

「だから宗教があるではないか。世界にはいろいろな宗教があり、世界の人々をばらばらにしている。時には対立させている。競争になって、いいのではないか?何か文句があるのかな」その声は執拗に迫ってくる。

「人類が一つであることを願う私にとって、宗教は歴史的産物になってしまう」

「そのようなことを考えつづけていると、気違いのようになって死んでいくのがおちだよ。悪くない頭脳と、悪くない肢体をもった君が、そんな落とし穴に落ち込むことは、人生の無駄遣いというというものさ」親切そうにその声は主張する」
「どうか私のことは気にしないで。自分が何をしているかということは百も承知だから。死にいたる病を背負っているのは、果たしたあなたなのか、それとも私なのか?その答えには、時間が必要と思う。私はそれをこの目で確認できる自信がある。類的人間であることの自信。絶えず心の底にその自信があり、魂に栄養を注いでいる。だから私のことは心配しないでくれ」
初夏の朝日が少しずつ緑に輝きを投げかけ始めた。詩人は深呼吸をして、これから始まる長い一日に感謝した。

又一日をありがとう。
(続く)