マリア

 

マリアは、米国オレゴン州に住んでいる。高校を卒業後、集団就職のような気分でメキシコからカリフォルニア州に来た。18歳だったので英語を習得するのも簡単だった。車の運転もすぐ覚え、ビルの掃除をして給料をもらい、米国の自由な生活を楽しんでいた。

 

20歳のとき、オレゴン州に移り、同じような境遇のホセに出会い、愛し合うようになった。彼にはメキシコに残してきた子供がいるということだった。ホセの妻は若くして3番目の子供を生むとき亡くなったという。ホセは建築現場で働いていた。マリアはホセと同棲するようになり、子供が生まれた。娘だった。ジェシカと名づけた。

 

このような話はよくある話だ。その後、ホセがメキシコに帰ることになった。やはり自分の子供が心配なのと、ある程度お金もためたので、子供の世話をメキシコでしたかったのである。当然のことだ。

 

残されたマリアは、気が付いてみると、ビザが切れていた。毎日くたくたになるまで働き、子供を生み、育児、仕事をこなしている間に、大切な書類のことを完全に忘れていたのである。いわゆる不法移民になったようだ。マリアには不法移民という言葉も遠い外国語のように響き、自分とは程遠い感じがした。メキシコ人にはどうやらカリフォルニアあたりは自分の国の延長と言う感覚があるようだ。しかも、米国に来るときのビザは集団就職で、他人任せだったので、ビザの更新ということは実際彼女の念頭には無かったのである。

 

ホセはメキシコに帰ってしまった。マリアとジェシカ、母娘二人、今は狭いアパートで暮らしている。台所に丸いテーブルが一つとベッドルーム一つ。小さなベッドルームには窮屈そうだが、仲良く二つのベッドが並んでいる。

 

「マリア、メキシコに帰っておいで。ジェシカを連れて。メキシコだってこのごろはそんなに悪いところじゃないよ」昨夜、ホセが電話をかけてきた。ジェシカが寝かせようとする頃だった。

 

「パパ、ジェシカよ。わたし達の所へ戻ってきてね。ママといつもパパを待っているのよ」母から受話器を奪うようにしてジェシカは父と話した。

 

「ジェシカ、一回メキシコに来てみないか」と言う父親。マリアはジェシカから受話器を取り戻した。ホセにもう遅いから、今度は少し早めに電話してね、と頼んで受話器をおいた。

 

今マリアが働いているのは、全米に竹の子のように広がっているジムのポートランド支部。 ジムに通ってエクササイズをする人が流した汗をマシンから拭う。重いトレッドミルやステアマスターを動かして、その下のカーペットに掃除機をかける。毎朝3時起きで、4時には仕事にかかる。娘も朝早く起こし、近くに住んでいる友達に預け、その友達が幼稚園に連れて行ってくれる。

 

ジムで掃除を8時間。正午過ぎには一日の仕事が終わる。午後は近くのコミュニティ大学で英語の勉強だ。教室に座って英語の授業に集中しようとする。昨夜、ホセがジェシカをメキシコに誘っていたことが気になる。どうしようか、6歳になるジェシカをメキシコに一人で行かせることは不可能ではない。航空会社は単身旅行の子供エスコート・システムがあって、着陸地で子供を保護者に引き渡してくれる。メキシコには自分の両親がいるし、ホセの家族もジェシカを歓迎してくれるだろう。

 

ジェシカはアメリカ国籍である。アメリカ生まれ、保育所から幼稚園と殆ど英語なので、むしろ英語で話しかけられるとうれしそうだ。マリアはジェシカのアメリカン・パスポートを申請して、ジェシカのメキシコ訪問を準備することにした。パスポート申請を受け付ける近くの郵便局に行く。ジェシカをメキシコに送れば自分も少しは自由になれるし、彼女も朝早く起きる必要はなくなる。メキシコ体験は楽しい勉強になるだろう。夏休みの間だけでもいいのではないか、と思いながらマリアの心は躍った。

 

「ご両親の署名が必要になります」パスポート係はマリアの顔を覗くようにして言った。

「父親はどこにいるか分からないのです」マリアは思わず嘘をつく。

「それなら母親の署名だけでもいいですから、必要書類を提示して、その旨の手紙にご署名、提出してください」あくまでも書類が大切なようである。メキシコ行きはこれでおしまいだ、とマリアは思った。パスポート等自分の書類を提示して、請願する手紙を提出することは出来ない。重い足をひきずり車に乗り込むとマリアはジェシカの待っている幼稚園に向かった。

 

「ジェシカ、メキシコに行くにはパスポートと言う書類が必要なのよ。今日あなたのパスポートを頼みに行ったのだけれど、お父さんの署名が必要みたい。あなたはまだ子供だからね。お父さんが頼まないといけないのよ。でもお父さんメキシコだし、署名をもらうのは大変。メキシコ行きはだめになるかも。それでもがっかりしない?」マリアは母親だけの署名でも書類と手紙で説明すればいいのであるという話をジェシカにはしなかった。そこまで説明して、母親が不法に滞在していることを理解してもらうことは無理な気がした。不法滞在が分かればメキシコへ強制送還等、アメリカ人の小さな娘にどうしても説明できる問題ではない。

 

マリアは幼稚園の一日を終え、うれしそうに車の後席に座っているジェシカをバックミラーに見た。がっかりしないか、と言う母親の質問がぴんと来ないように微笑んでいる。マリアは大切な娘を乗せた車をお抱え運転手のような注意深さで走らせ、二人は小さな我が家に着いた。

 

「ママ、本当はね、ママを置いてメキシコに行きたくないの。ママの側にいた方が私安心なの。ママと一緒にメキシコに行ける日を待つわ」ジェシカは大きな目を見開いて、夕食が並んでいる丸いテーブルの真向かいに座っている母親を見た。パスポートとメキシコ行きが無理なようである、という母親の説明を車の中で聞いていて、今やっと考えがまとまったようである。二人で何でも話せるこのようなお夕飯のひと時を失いたくないと言う小さな決意もあるようだった。

 

食事の前の簡単なお祈りをしようとしていたマリアは微笑んで立ち上がり、そっと近寄ってジェシカを抱きしめた。この幸せはどうしても守らなければいけない、とマリアは思った。

©2007 Miyoko Mary Katabami